富山県の産業

日本海側屈指のものづくり県

富山の魅力は豊かな大自然とともに、そこで育まれた産業分野でも世界の熱い視線が注がれています。歴史と伝統が息づく富山ならではの独自の文化により、今に通じる産業発展の軌跡を垣間見ることができます。
質の高い労働力と豊富な電力・水資源に支えられ、幅広い産業分野で日本海側屈指の産業集積を形成してきました。
300余年におよぶ医薬の伝統を生かしたバイオ産業をはじめ、ロボット開発、AI、深層水関連産業など、富山県の特色を活かした成長産業にも世界から注目を集めています。

​売薬の歴史

越中富山の売薬の歴史は、富山藩第2代藩主前田正甫(まさとし)までさかのぼります。正甫は備前の医師万代常閑(もずじょうかん/子孫は万代(まんだい)と名乗る)から「反魂丹(はんごんたん)」の製法を学び常時持ち歩いていた。
元禄3年(1690)正甫が江戸城に登城した折、三春藩主秋田輝季(てるすえ)が突然腹痛で苦しみだした。正甫が反魂丹を処方したところたちどころに治まり、居合わせた諸国の大名たちは驚き、領内で頒布してくれるよう頼んだという。そこで、薬種商 松井屋源右衛門に製法を伝授し、八重崎屋源六に諸国へ売り広めるよう指図されたというのが、巷で伝わる伝説となっています。
売薬の起源の真偽は別にして、江戸時代商品経済の拡大とともに、「先用後利(せんようこうり)」という顧客との信頼関係に基づいた顧客本位の姿勢によって富山の売薬は大きく発展していきました。そこに北前船の隆盛は、売薬の商圏拡大を側面から支援することにもつながっていきます。
文化13年(1816)には「反魂丹役所」が設置され、2,000人を超える売薬業商人が活躍していきます。
明治期に入り西洋化の中で一時的に苦境に陥るが西洋の医薬品も取り入れ、ふたたび配置薬は富山の主要産業として興隆。銀行、電力事業などに投資を行い、富山県の産業近代化を主導したのはこうした売薬資本家たちでした。

​北前船(きたまえぶね)の功績

北前船の航路は古くは藩米を大阪に運び換金するためのルートであった。したがって船主の多くは近江商人、大阪商人であった。文化年間(1804-1818)に蝦夷地の鰊(にしん)が魚肥として認められたことによって北前船は大きく発展する。とりわけ越中では、砂石の層の上に粘土質の表土が覆っているため、窒素分の多い鰊肥(れんび)は効果が高く需要が多かった。つまり、北前船は北陸で米を仕入、北海道で米を売り、昆布、鰊肥を仕入れて、越中で昆布、鰊肥を売り、再度米を買い付け、大阪で米や、鰊肥を売り、代わりに木綿原料や雑貨を仕入れて北陸で販売するという三角貿易のような形が出来上がった。
北前船は、荷主の委託を受けて物資を運ぶ運賃積みではなく、船主が各地で自分の才覚で商品を買い付けし、寄港地で売りさばくという買い積み方式であった。その分リスクは高いが、1航海1,000両といわれるような大きな利益を上げることができた。積極進取の気性に富んだ越中、加賀、越前から多くの北前船船主を輩出した。越中の船主たちは明治期、蓄積した資本をさまざまな分野へ投資をし、富山県の経済黎明期に大きな役割を果たしたのである。

​富山を育んだ水の恵み

明治時代富山県を訪れたオランダ人土木技師ヨハニス·デ·レーケは常願寺川(じょうがんじがわ)を見て「これは川ではない滝である」といったと言われている。常願寺川は標高差約3,000メートルあるにもかかわらず、川の長さは56kmしかなく、急峻な勾配を流れ下って海へと注いでいる治水は県民の悲願であり明治16年(1883)富山県が石川県から分離したのも治水対策の強化のためであった。いわば治水は富山県のレーゾンデートルである。砂防ダムをはじめ明治以来営々と治水工事に取り組んできた結果、今や河川氾濫の危険性は大きく減少した。
3,000メートルの立山は自然の貯水池、雪のダムとして機能し、季節を問わず冷たく清らかな水を供給してくれている。立山の雪解け水は伏流水となり各地で湧出し、最終的に水深1,000メートルの富山湾に注ぎ込み、豊かな海を育んでいる。県民一人当たりの水資源賦存量は全国平均の4~5倍あるといわれている。豊富できれいな富山の水は、おいい、お米や、酒つくりにいかされているだけでなく、大量の水を必要とする現代の精密工業や電子部品工業などの発展にも寄与している。

電力開発による工業化

富山県の工業化は電力によってもたらされた。明治32年(1899) 4月営業開始した富山電燈を持って電気事業の嚆矢とする。富山県の豊富な包蔵水力が着目されるようになったのは大正年間である。富山の電力史を語るうえで欠かせない人物がいる。高峰譲吉(じょうきち)である。
高峰は、故郷の豊富な電力を活かして一大アルミ産業を起こそうと奔走する大正8年(1919)米国のアルコアと合弁で東洋アルミナムの設立を計画するが、第1次世界大戦後の不況でアルコアが出資を取りやめたので、事業目的をアルミ精錬から電源開発に変更し、日本電力(現関西電力)の資本参加を得て、黒部川水系の電源開発に着手した。その過程で作られたのがトロッコ電車であり、宇奈月温泉郷である。高峰の富山をアルミ産業の一大基地にするという夢は、高岡でアルミと鋳物の伝統技術が結びつくことで戦後実現することとなる。
昭和9年(1934)富山県の水力発電設備は406千kWとなり全国1位となった。豊富な電力と全国平均の半値以下という廉価な電力料金で、昭和に入って富山県には日満アルミニウム(現昭和電工)、日曹など電界電炉型産業を中心に多数の大企業の誘致に成功する。
こうして昭和期にはいると富山県の重化学工業化は大きく進んでいく。