富山県人会の歴史

富山県人会のあゆみ

本会の前身、富山県人会が発足したのは、大正5年秋のことであった。
明治4年、廃藩置県が施行され、旧前田藩の江戸詰の大半が東京に残ったが、これらの人達が、新しい時代に生きるすべを同郷の志らと語り合い、旧藩主を中心に組織したのが加越能郷友会であった。
同会の組織は、ご本家加賀百万石の前田侯爵が総裁、富山十万石の前田伯爵らの分家が副総裁に、会長には加賀出身の大臣、大将クラスの高官が就任し、越中・能登出身の高官が副会長にという仕組みができあがっていた。後年、越中側理事の申し入れで、南弘氏(元逓信大臣・氷見市)が会長になったが、越中出身の会長は南氏の一期だけであった。
加越能郷友会における富山県人の居心地は、必ずしも心地良いものでなく、富山県人会独立の気運は動き始めていた。万朝報の日南田村人氏(富山市)や中村甚松氏(東京毎夕新聞)ら在京の新聞関係者、五百石出身の菅原滋治氏らがその活動を支え、後援したのが博報堂創業者の瀬木博尚、北隆館初代の福田金次郎、青雲堂の葛西虎次郎の3氏であった。
大正5年秋、富山県人会は浅野総一郎氏(日本鋼管・浅野セメント創業者、氷見市)の高輪別邸で結成発足した。旧富山藩主前田利同(としあつ、13代富山藩主)伯爵を名誉総裁に、安田善次郎翁(安田銀行創業者、富山市)を総裁、浅野総一郎氏を副総裁に、初代会長に磯部四郎法学博士(富山市、のち貴族院議員)が就任、旧時代さながらの加越能郷友会から脱却、新しい時代の県人会を目指して独立、発会したのであった。
結成当時の記録は、発会された会報も戦時中の戦災等で焼失散逸したため、その詳細は不詳である。

創立後の活動

創立後の活動は、加賀前田家に対する遠慮も強く、富山県出身の高官や明倫学館出身の人達は、容易にこの活動に参画されなかったようである。後年、磯部四郎初代会長の没後、二代目会長就任まで10年余が空席のままとなった。
関東大震災で会長を失い、その活動も休止状態に追いこまれた県人会であったが、震災当時県人会活動を実質的に支援した瀬木博尚氏が、富山県からの見舞金を小石川伝通院で在京の県人に配布した逸話も残されているが、大正14~15年には、新聞界はじめ広く在野民間の在京県人により県人会の復興活動がおこり、昭和に入ってその活動が少しずつ軌道に乗り出してきた。
昭和9年、空席だった第2代会長に南弘氏が就任、戦前の県人会活動に燭光が灯った。加越能郷友会は、その活動が戦前で終り、戦後は石川県人会として発展を遂げ、本会の創立以来本会との関係は対立的なものでなく、全国石川県人会連合会の前田利建会長(旧加賀藩主)には、同氏が逝去されるまで本会の名誉顧問に就任いただき、友好的な交流がいまも続いている。

東京富山県人会の今

富山県人会は、時代の移り変りにつれ幾多の変遷を経てきたが、現在のように活発な活動が始まったのは戦後のことである。
同郷の志という信頼関係に立つ親睦交流団体として、東京富山県人会を中心に、東京並びに首都圏各地に個別の居住地別県人会、また出身市町村別の郷友会が数多く誕生した。
東京富山県人会は、昭和31年に東京富山県人連合会と会名を変更、さらに昭和57年、連合会の組織を各個別県人会の連合体であることを明確にするため、各県人会の協力のもとに会名を富山県人会連合会(昭和63年、会名に東京を冠し現在の東京富山県人会連合会となる)に改め、在京の県人会会員を網羅した、より開かれた県人会連合会を目指し、各県人会の活動を支援する母体として愛郷県人による“親睦交流の場”
のひろがりに努め、在京県人の“明日への活力源”になるため活発に活動を続けている。
東京富山県人会連合会(以下連合会と略)の会員は、在京の各県人会(居住地別・出身地別・同窓会・部会など)を正会員、富山県関係企業法人の法人会員、連合会役員の特別会員(各県人会の会長ほか幹部役員の皆さんを含む有志県人個人)のほか、月刊誌「富山と東京」愛読者による賛助会員の4種の会員で構成されており、各県人会の会員は、所属の会で活動するとともに、連合会の行事にも参加し、在京富山県人間の連携強化と交歓の場を楽しみにしていただいている。