
中山 寛樹(なかやま・ひろき)
冒険家 / 外洋セーラー
1983年、富山県高岡市生まれ(43歳)。高岡市立高陵中学校、高岡工芸高校を卒業後、イタリア料理の道へ。19歳でイタリアに渡り、22歳から約2年かけて世界30カ国以上をバックパッカーとして巡る。帰国後は飲食店経営や大規模病院内レストラン事業の取締役など実業家として多彩なキャリアを構築。2019年にヒマラヤ未踏峰の初登頂を果たした後、外洋セーラーに転身。大西洋単独横断レースを完走し、現在は単独・無寄港・無補給世界一周レース「Global Solo Challenge」への日本人初出場に向け活動中。
富山の原風景と、目立たなかった少年時代
まずは、ご出身である富山県高岡市での幼少期や学生時代についてお聞かせください。今のような「冒険家」の片鱗は、子どもの頃からあったのでしょうか?
私の原風景にあるのは、やはり立山連峰の圧倒的な存在感と富山湾です。稜線や水平線の先への好奇心は、この頃に育まれたと感じています。ただ、子供の頃はその発散の方法がわからなかったし、周りに聞いて分かることでもありませんでした。実は母子家庭の一人っ子として育ち、母が保険の営業をしながら懸命に育ててくれたのですが、母も今の私の活動を見て「どうしてこうなったんだろうか」と不思議がっていますね(笑)。
高陵中学校、高岡工芸高校時代は、一言で言えば「目立たない存在」だったと思います。自分の周囲よりも、自分の内面や、ヨーロッパなどの遠い外側に関心が深くなっていきました。富山にいた頃はずっと「うちから湧き上がってくるものをどう発散すればいいのか」という得体の知れないモヤモヤを抱えていた思春期でした。
高校卒業後、22歳で世界30ヶ国以上を旅されたそうですが、それが冒険の原点になったのですね。
高校卒業後は富山を出て、神奈川県のレストランに就職してイタリア料理のコックをしていました。転機は19歳の時、料理の勉強のために初めて一人でイタリアへ渡ったことです。そこで「料理」以上に「旅」そのものの面白さに取り憑かれてしまいました。翌年にはタイへ行き、ヨーロッパとアジアの両方を経験して「もっと色々な世界を見たい、世界一周をしよう」と決意したんです。
22歳〜24歳までの旅は、私の人生の決定的な転換点でした。好奇心が満たされていくことをずっと続けたいと思い、1円単位で切り詰めて旅をしました。その結果が、ヒッチハイクや自転車での移動であり、多くの友人との出会いにつながりました。この経験が、私のバイタリティの絶対的な基礎になっています。
多彩なビジネスキャリアと「富山人の血」
帰国後は、飲食店経営や会社役員など、実業家として多彩なキャリアを歩まれています。
20代の時は個人事業主として自分のお店をやっていたのですが、30歳を機に一度企業へ就職しました。そこでは、山形大学医学部附属病院や国立がん研究センターといった大規模な総合病院の中にレストランを作る事業の立ち上げを担い、最終的には取締役まで務めました。その後、当時の社長が亡くなられたことを機に事業売却があり、退く決断をしました。
冒険だけでなく、ビジネスの最前線でも修羅場をくぐり抜けてこられたのですね。そうした場面で、ご自身のルーツを感じることはありますか?
富山の県民性は、一般的に「真面目で勤勉」と言われます。30代に入り、会社経営や新規事業立ち上げでは、このバイタリティと、元々持っていた「徹底的にやり抜く粘り強さ」が活かされたと思います。リスク管理や論理的な戦略を組み立てている瞬間などに、「ああ、自分の中にも堅実で粘り強い富山人の血が流れているな」と深くルーツを感じます。計画の立て方や逆算の思考は、ビジネスも現在の冒険も全く同じなんですよ。
計画の立て方や逆算の思考は、
ビジネスも現在の冒険も全く同じ
ヒマラヤの未踏峰から、過酷な「海」への転身
ビジネスの一線を退いた後、ヒマラヤの未踏峰を初登頂されました。そこから一転して「外洋セーラー」へと転身された理由は何だったのでしょうか?
ヒマラヤの山をいくつか登り、未踏峰の登頂も果たした直後、新型コロナウイルスの流行が始まりました。さらに自分自身も足を怪我してしまい、しばらく山に行けない、ヒマラヤに挑戦できない時期が続いたんです。次に何をしようかと考えていた時、世界一周ヨットレースに挑む白石康次郎さんの姿を目にし、「自分もこれをやろう」と決意しました。そこからヨットを始め、まずは実績を作るために「大西洋横断レース」に挑戦しました。
一人きりの海の上は、どのような環境なのでしょうか?
皆さんが想像する以上に過酷だと思います。私が乗る船は約13メートル(40フィート)の完全なレース仕様で、居住性は皆無です。ベッドなど当然なく、寝る時は床に寝袋を敷いて寝ます。波に揺られて最初はひどい船酔いに苦しみますが、人間の体はすごいもので1週間もすれば慣れます。逆に陸に上がった時に「陸酔い」でフラフラしてしまうほどです。
最も恐ろしいのは、コンテナなどの浮遊物体や海の生き物との衝突です。大西洋横断の際も、コンテナか、クジラかにぶつかって船を壊し、貨物船に救助された日本人選手がいました。シャチが体当たりしてきたり、木製の舵をかじられたりすることもあります。そうしたトラブルの修理も、嵐の中の操船も、極度の緊張感のなかで全てたった一人でやらなければなりません。
まさに死と隣り合わせの極限状態ですね。そんな極限の環境下で、富山を思い出すことはありますか?
特にヒマラヤに登山に行っている時、当然海はありませんので、魚が食べたくて仕方がなくなります。子供の頃からおいしい魚に慣れた体にはこの渇望感はどうしようもありません。
一度、ヒマラヤで予定より早く登頂、下山できたことがあり、1週間も早くネパールの首都のカトマンズに戻ってきてしまったことがあります。その時は帰りの飛行機のチケットは捨てて、クアラルンプールに飛び、伊勢丹で寿司を食べに行ったことがあります。この渇望感はどうしようもないですね。次は4か月間、360°海ですので、どうしようもなくなったら自分で釣りをして寿司でも握ろうと思います(笑)。
人生を逆算する哲学と、次なる大冒険
どうしてそこまで過酷な挑戦を続けられるのでしょうか。中山さんの「原動力」とは何ですか?
明確に言えるのは「死ぬ時に後悔したくない」ということです。若い人たちは就職先や進学先といった近視眼的なものの見方をしてしまいがちですが、最終的に人生が終わる時に「ああ、良かったな」と思えたら、それが最大の価値だと私は思っています。
私には「人生のうちにこれをやりたい」というリストが現在82個あり、今はその1/3ほどを達成しました。それを一つずつなくしていけば、きっと幸せな死に方ができる。逆算して生きているんです。
人類の何千年という歴史のなかで、私たちは今、信じられないほど恵まれた時代を生きています。100年前に生まれていたらこんな挑戦はできません。だからこそ「お金がない」とか「環境が悪い」と文句を言うのではなく、俯瞰して考え、やりたいことをやるべきだと思っています。
死ぬ時に、後悔したくない
そして来年、いよいよ世界一周への挑戦が始まります。
はい。わたしは、来年、スペインをスタートし、地球一周してスペインでゴールするヨットレースへの出場をめざしています。期間は約140日間、誰からの補給も受けず、どこにも寄港しない孤独なレースです。これに出場できれば日本人初となります。現在、目標資金1億円の調達に向けて、東京富山県人会連合会の皆様にもお力添えをいただきながら、スポンサー集めやメディアへの発信に奔走している真っ最中です。
最後に、東京で活躍されている富山県人の皆様、そして故郷の後輩たちへメッセージをお願いします。
心地よい環境から抜け出して挑戦しよう。と、推奨しています。富山は保守的です。窮屈だと思っていました。しかし私のような価値観を持っている人間でも、富山が変わらなければいけないとは思いません。独自の文化と県民性は強い個性にもなり、心地よくもあります。
そして、私の原風景である北アルプスと富山湾は世界を見渡しても比肩する場所は少ないでしょう。結局は、富山の素晴らしさは外を見てみないとわからないということです。
東京や海外でご活躍の皆様も同じことを感じておられるのではないでしょうか。若い人たちには、一度外に出て挑戦し、また富山にその経験を還元するような流れを作ってほしいと願っています。私自身もそのための架け橋になりたい。
富山の素晴らしさは、
外を見てみないとわからない
中山さんの挑戦を、ともに。
いま最も求めているのは、スポンサーとしての資金提供や製品・サービスの提供によるご支援です。世界的に注目度の高いレースですので、費用対効果を高めることが可能です。
それ以外にも、SNSフォロー、メディア関係者のご紹介、法的アドバイス、会計アドバイスなど、多岐にわたる支援が必要です。ルール上レースは1人で行いますが、サポートメンバーに制限はありません。ぜひ「チーム富山」として、共に世界一周、そして優勝を目指しましょう。お気軽にお問い合わせください。
